縁起

得生寺の歴史

延徳2(1490)年、真壁城大手前の地に得生寺は開創された。今からおよそ500年前である。

当時の真壁城城主は第14代真壁安芸守尚幹(あきのもりなおもと)であった。

ちょうどこの5年後には鎌倉光明寺の観誉祐崇上人が後土御門天皇の勅旨により、京都真如堂に伝わる十夜法要を修し、以来勅許により十夜法要が浄土宗伝統の行事となる。

応仁の乱(1467~77)以降、室町幕府の威令が事実上行われなくなった乱世の時代である。

まさに民衆の厭離穢土(えんりえど)欣求浄土(ごんぐじょうど)の拠点として当寺は建立されたのであろう。

その当時は念仏堂程度の規模のものと考えられるが江戸時代に入り下野国(栃木県)大沢村浄土宗円通寺(名越派)の第14世然蓮社良賢上人の入山により黒印地7石の所領が安堵され寺格が認められて今日の基礎が固まった。

慶長15年(1610年)、大本山増上寺第12世存応上人は、徳川家康の推挙を受けて宮中で法話を行い、後陽成天皇より、「普光観智国師」号を下賜された。

江戸徳川家における菩提寺は浄土宗大本山増上寺であったことにより浄土宗の寺院は、時の将軍家から特に許されて、三つ葉葵が寺紋となっている。徳川家康の念持仏が阿弥陀如来であり日課念仏六万編であったこと、「厭離穢土欣求浄土」の旗を掲げていたことはよく知られている。

旧本堂は第9世称蓮社良専上人が発願、計画し第10世厳蓮社良庄上人の代、西暦1700年頃に完成し、以来昭和53年2月まで約300年間にわたり念仏の法灯を伝えてきた。

得生寺は歴代住職が本宗教義宣布の傍ら近隣の子弟教育につとめ、学問の寺として親しまれてきた。

特に第22世開蓮社智誠上人は40年間に亘り数百人の教え子をもち、その薫陶を受けた人々が各方面にて活躍した。

昭和7年第23世温蓮社良信上人(昭和53年大僧正を追贈さる)はこの伝統の中で当寺境内に「隣保館」を設立し、大乗仏教精神に基く青少年教育、社会福祉事業を推進し、「淑徳大学」の創立者となった。

第24世白蓮社俊峨上人は、終戦後疎開していた文化人を登用して「光明文化学園」を開設し信仰を中心とした総合的文化活動(茶道・華道・箏曲・書道・洋和裁・英語・中国語)を約10年間に亘って展開した。最盛時には学生800人を擁した。

又、俊峨上人は「隣保館・幼児部」を更に発展させ昭和23年の児童福祉法制定の翌年保育所としての認可を受け定員70名の私立「真壁保育園」を発足させた。

真壁保育園は昭和50年には定員210名(平成24年現在定員250名)となり現在まで多数の卒園児を輩出し地域の福祉、幼児の教育に貢献している。

本堂再建は俊峨上人代、昭和54年11月3日竣工落慶式が挙行された。

※ウィキペディア「得生寺」221.189.70.122 による 2018年2月7日 (水) 21:43の投稿及び221.189.70.122 による 2018年2月7日 (水) 21:45の投稿は、このWebページの作成者によるものです。